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信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都

 【13//2012】

信長が見た戦国京都 
城塞に囲まれた異貌の都

1_20120328114345.jpg

永禄二年(1559年)二月二日
尾張を統一した織田上総介信長は初上洛を果たしている。

平安京以来の「千年の都」「いにしえの都」の姿を今にとどめた雅な都市であり、
いつの時代も日本の中心地として栄えていた王城の都
しかし信長が見た京都はずいぶんと荒廃していたようである。
若き日の信長が見た戦国の京都は我々が思い描く千年の都の姿とはかけ離れたものであった。


当時の公卿や僧侶の日記、町衆の残した文書、洛中洛外図、イエズス会宣教師が本国へ書き送った報告書などを丁寧に紐解いて行き、信長の見た当時の京都の姿を明らかにする。
そこに浮かび上がるのは、「千年の都」「いにしえの都」などと謳われた雅な都市の姿ではなかった。
きわめて小さな範囲で自衛・自治する町人の要塞と化した「上京・下京」の姿であった。
室町通を中心に「上京・下京」という城塞都市がふたつ、独立した形で機能していた。
後年、信長の終焉の地となる本能寺は現存の地ではなく、「上京・下京」という城塞都市から
離れた「洛外」にあったという。


洛外にあったからこそ謀反人明智光秀は大軍で本能寺を取り囲む事が出来たのである。
現在伺える京都の町並みは、信長の死後に時の権力者となった豊臣、徳川によって造られた新しい都の姿である。


京の町衆は信長を歓迎していなかった
「信長は、光秀ではなく京都に殺された」
京都は応仁の乱以降、数々の侵略者に蹂躙(じゅうりん)されてきた都である。
覇権争いに勝ち残り上洛を果たす数多くの者達を京都の町の人々は侵略者として見て来た。
それは織田信長とて同様であった。
京都の人々にとって覇権を手中にする者は侵略者であり悪であったのかもしれない。
仮に本能寺の変で明智光秀が信長を討たなかったとしても、いずれ誰かが信長を狙ったであろうということである。



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